幸せってなんだろう。
漠然としてるけど、でも我々人間にとって超重要なテーマだ。
幸せになりたくない人なんていないだろう。
しかし幸せになりたいと思っていてもなかなか幸せにはなれないものだったりする。
実際僕も過去に色々な困難があり、うつ病も患ったりと、不幸のどん底にいた。
経済的に困っていたわけでもなく、体も健康だったが、毎日毎日自殺したいと思うほどに心を病んでいた。
その他にも困難なことが人生で山ほどあり、精神的に苦しいことをたくさん経験してきた。
そして「苦しみから脱したい!」、「幸せになりたい!」ともがき苦しんできた中で、最近一つ実感として分かってきたことがある。
「幸せ」というものについて、一つの真理に到達した実感がある。
実はたくさんの人はすでに幸せであり、それに気付いていないだけ、もしくはそれを見ようとしていないだけだというのが僕の幸せに関する持論だ。
というワケで、それが一体何を意味するのか、幸せとは一体何なのかということを、ゴッホが分厚い筆で絵の具をキャンバスにぶちまけるようにここに書き殴っていきたいと思う。
我々日本人は海外と比較すると幸せを感じにくい民族だが、この記事が人々の不幸感を少しでも和らげることができれば僕としては幸せだ。
幸せは心の中にある
幸せというものは案外近くにあるものであり、あなたが幸せじゃないのは遠くを見過ぎているからだと思う。
前述したように僕はかつて不幸のどん底にいた。
自分という人間には価値がないと思い、自分の存在を全否定していた。
僕は元々「歴史に名を残したい!」とか、「大きく成功して富や名声を得たい!!」と思うタイプの人間だった。
そしてビッグになることを思い描いて音楽活動をしていたが、しかし現実は甘くなく、思い描いていた自分になることができなかった。
その時、富も名声も手に入れることができず、普通である自分には存在価値がないと思い込んでいた。
そして色々な状況も重なって精神的にかなりハードな状況が3〜4年と長く続いたが、徐々に精神状態が良くなってきて人生を楽しめる余裕も生まれてくるようになった。
そんな頃に、実家で飼っていた愛犬が亡くなった。
彼とは兄弟のような間柄で、僕自身彼のことをとても可愛がっていた。
愛犬が亡くなったことを母から聞いた次の日、急いで実家に帰った。
そして実家に帰省している途中、故郷のとある小さな駅で、お年寄りたちが楽しそうに踊って旅人を歓迎している光景を見た。
その時に強烈に思った。
「この人たちは決して裕福ではないだろうけど、都会のお金を持っている人たちよりも幸せそうに見える。富や名声なんて幸せには関係ない!自分の状況を自分がどう思っているかが一番大切なんだ!」って。
昔の自分は幸せというものは遠くにあるものだと思っていた。
幸せを追いかけて追いかけて、そして遠くにある大きな幸せを自分の手で掴み取るものだと思っていた。
しかしそれは全く逆だった。
幸せは遥か遠くにあるのではなく、実は一番近くにあった。
幸せは心の中にあった。
自分が幸せかどうかは自分の心が決めるものであり、富や名声というものは幸せの必須条件でもなんでもなかった。
先程のお年寄りたちのように、たとえ裕福でなくても自分が幸せを感じていればそれで幸せなんだ。
その後実家に帰り着き、家族で一緒に撮った写真や愛犬が写っているアルバムを色々見ていると、そこには幸せが溢れていた。
我が家は決して裕福ではなかったが、日常のささやかなシーン、幸せな一瞬一瞬が切り取られてアルバムに収められており、幸せというものが何か特別なもの、遠くにあるものではないんだなということを、泣きながら強く強く思った。
アルバムを見ると心が温かくなった。
それが答えの全てだった。
幸せは心の中にあった。
当たり前 = 幸せ
実家で飼っていた愛犬は自分にとって弟のような存在であり、今は家に帰っても彼が出迎えてくれないのがとても寂しい。
彼がいた当たり前の日常がどれほど自分にとって大切だったかを痛感している。
そしてその当たり前を失って初めて心から気付いた。
自分は彼と一緒にいた時、本当に幸せだったんだなって。
当たり前というのはよくよく考えてみると、実はめちゃくちゃありがたいものなんだ。
風邪を引いたり、一人暮らしを始めたり、歩けなくなったりすると、以前当たり前にできていたこと、やってもらっていたことのありがたさを感じるだろう。
つまり、当たり前というのは実はとても恵まれている、幸せな状態であるということでもあり、本人が気付いていない、もしくは意識していないから普段はありがたさが感じられないというだけだ。
しかし、心の在り方が変わって当たり前の日常に感謝できるようになると、自然と幸福度の高い人生に変わってくると思う。
当たり前のなんでもない日常こそ、実は本当に本当に本当にありがたいものなんだ。
愛犬と遊んでいた何でもない日常が、僕にとって本当にかけがえのない大切な日々だった。
そのことに全く気付いていなかった。
そして僕は今、周りの当たり前のことに心から深くありがたみを感じられるようになった。
そのおかげで以前と比べてずっと幸せで、自分の人生に深い満足感を感じるようになったし、家族のこともそれまで以上にもっともっと大切にすることができるようになった。
別に僕がお金持ちになったわけでも、夢が叶ったわけでも、美人と結婚したわけでも、マイホームを買ったわけでもない。
周りの状況は一切何も変わってない。
変わったのは僕の心だ。
このように心の在り方が変わるだけで、人はいくらでも不幸になるし、いくらでも幸せになれると思う。
例えそれがなんでもない当たり前のことだったとしても、それについて結局は自分がどう感じるかで人生は全く違ってくるんだ。
そして何度も言うが、当たり前のことこそ、本当に大切で本当にありがたいものなんだ。
物質的な幸せは脆い
物質的な幸せは脆い。
富や名声を軸に幸せを感じていると、それらがなくなった時に不幸になってしまう。
富や名声が失われる恐怖というものも人生に付き纏うだろう。
物はなくなることがある。
栄枯盛衰。永遠の繁栄などあり得ない。
物質的な幸せは脆い。
それに、アレも欲しいコレも欲しいと求め過ぎてもキリがない。
欲が深ければそれだけ自分の人生に満足することが難しくなってしまう。
だからこそ、例え物がなくても、裕福じゃなくても幸せを感じられるような心を備えていた方が、人生をより豊かなものにできると思う。
当たり前の、普通の日常に感謝できる心があれば、人生を幸せに生きられると思う。
いつの時代でも人は幸せになれた
人はどんな状況でも幸せになれるように創られていると思う。
今よりも物質的に全然豊かではなかった100年前や200年前の人たちがみんな不幸だったかと言われるとそんなことはないと思う。
人類が進歩するためにはある程度「今」に幸福感や充実感を感じて人生を前に進めていかなければならないため、社会が便利でも豊かでもない時代であっても、人は幸福感を感じられるように創られているんだと思う。
昔からずっと物質的な豊かさはあまり関係がなく、いつの時代でも幸せかどうかはその人の心が決めていたんだと思う。
逆に物質的に豊かになった現代人が幸せなのかというと、色々なデータを見る限り胸を張って「Yes」とは言えない。
そして今よりももっと便利で豊かになったであろう100年後、200年後の人類も今と比べて幸せになっているかというと、多分そんなに変わらない気がする。
幸せとは足し算ではなく引き算
僕は今、色々なものを手に入れることが幸せではなく、今ある幸せに気付き、当たり前の日常に感謝しながら今この瞬間を大事に生きていくことが本当の幸せだと思っている。
そして今ある幸せに気付けるには、少し困難を伴うことだってあるだろう。
例えば、ガンを患い、長くて苦しい闘病を経てガンを克服した人たちはみんな「ガンになって良かった」と言うらしい。
ガンになることで、命の大切さ、生きることの素晴らしさに深く気付けるらしい。
僕も愛犬を失うことで、当たり前の日々に隠されている幸せに心の底から気付くことができた。
幸せとは、欲しいものを次々と手に入れることではなく、何かを失って初めて気付くもの。
つまり、幸せの本質とは足し算ではなく引き算だと僕は思う。
僕は実家から東京に就職で上京してきた時に、働いた後も食事の用意や洗濯物や掃除など全部自分でやらなきゃいけない大変さを実際に体験することで、親への感謝の気持ちが強烈に湧いてきた。
身近にいた親の存在を失うことで、親への感謝が溢れた。
そして上京して以来、今までずっと母の日や父の日や両親の誕生日には感謝の気持ちを込めてプレゼントを送っている。
身近にいた家族の存在を失って初めて、僕たち家族はより幸せになったと思う。
今ある幸せにいかに気付けるかが、幸せな人生を送る上でとても重要になってくると思う。
まとめ
ここまで「幸せ」というものについて僕の意見をゴッホタッチで書き殴ってきた。
もちろん物質的な豊かさを追求することが絶対悪だと言っているワケではない。
「金持ちになりたい!」とか「有名になりたい!」という願望は恥ずべきものでもなんでもないし、追求したいのであればガンガン追求すればいいと思う。
それは自分のためだけではなく周りのためにもなるから。
ただ、僕はそのような願望を掲げることでたくさん苦労をしてきたし、心もかなり貧しくなっていた経験があるので、今回のような趣旨の記事を書かせてもらった。
幸せというのは何も立派なものではなく、特別なものでもないと僕は今強く思っている。
「自分は幸せじゃない」と思っている人は、今身の回りにある幸せに気付いていないケースがほとんどなんじゃないかと思う。
そうではなく、「ご飯がおいしかった」とか、「天気が良かった」とか、「今日も一日健康で過ごせた」とか、「お母さんと連絡を取った」などのように、身の回りにあるささやかな日常の幸せを噛み締めることができるようになれば、きっと自分の人生に深く満足するようになると思う。
また、幸せというのは他人が決めるものではない。
金持ちじゃなかろうが結婚できなかろうが腕がなかろうが足がなかろうが、それで即不幸とはならない。
最近東京パラリンピックがあったが、軽い障害、重い障害、様々な障害を持っている人たちが大きな舞台でめちゃくちゃ輝いていた。
もうね、あれは本当にすごかった!!
知能の発達が遅れていようが体の一部がなかろうが全く不幸そうに見えなかったというか、むしろ競技としての困難や障害を持つことの困難に立ち向かってきた力強さや、勝利した時の嬉しそうな表情、負けた時のやり切ったという充実した表情などを見ていると、幸せの形って人それぞれだし、人は色々な困難があってもこんなに輝くことができるんだなってすごく勇気をもらった。
決して裕福じゃなくても、どんな困難な状況でも我々は幸せになることができるし、幸せになるかならないかは、やはり最後は自分の心次第だと思う。