主張

障害者は不要?人の価値を生産性だけで測る人の3つの間違い

桜は散り際が一番美しいですよね。

出会いと別れが交差する始まりの季節に淡い桃色が吹き上がり街はまるで人々の門出を祝福するパレードのようだ。

あぁ美しい。

儚く揺れながら舞う桜を見てここで一句。

桜はね
ヒラヒラ舞うのが
美しいんだなあ

下手くそかお前は!

「~だなあ」って、相田みつをのパクリじゃないですか。。。

俳句に興味がないの丸分かりだわ。。。。。。

お歌を詠んで気分もサッパリ、評価はバッサリ、どうもこんにちは、太郎です

桜の季節、新生活シーズンになると、学校に入学したり、会社に入社するフレッシュな新卒たちを見かけたりしますよね。

僕は社会人として働き始めてかれこれ7年目になりますが、働き始めてからしばらくの間だいぶ苦労しました。

周りに迷惑をめッちゃくちゃかけたし、成果も全然出せない日々が続いたので、生産性0どころかマイナス2000ぐらいのお荷物社員でした。

生産性のある社員は評価され、生産性のない社員は評価されない。

これは至極当然のことだと思います。

しかし一方で、この「生産性」という言葉が歪んで使われているケースがあると思います。

代表的なのは障害者に対して使われるケースですね。

「障害者は生産性がないから生きている価値がない」というフレーズは僕も目にしたことがありますし、少し前に障害者を巻き込んだ凄惨な大事件が発生したことは記憶に新しいと思います。

やまゆり園で起こったあの事件です。

犯人は逮捕後も「障害者は生きていても社会に迷惑をかけ続ける存在だから殺してもいい」という一貫した主張を続けています。

結論から言うと、僕はその主張は完全に間違っていると思います。

彼がしたことは最悪最低の行為であり、何回死刑にしても足りないぐらいの卑劣な犯行だと思っています。

あのような事件はもう二度と起こってほしくないですし、そのためには障害者をタブー視せずにもっと正面から向き合っていかなければいけないと思います。

なので、障害者に対する僕の意見、人の価値を生産性だけで測ることの間違いについて、僕の考えを以下に述べていきたいと思います。

この記事が障害者への考えを深めるきっかけになればとても幸いです!

人の価値を生産性だけで測る人の3つの間違い

人の価値の測り方には色々ある

「障害者は生産性がないから生きる価値がない」という主張は、それはその人にとっては生きる価値がないということです。

あくまでその人の視点から障害者を見た時の考えです。

しかし一方、他の人たちから障害者を見れば、生きる価値があるかもしれないのです。

障害者の家族や施設の介護者たちは生きててほしいと思っているはずですし、障害者を価値の低い人間とは思っていないはずです。

人の価値の測り方には色々あります。

生産性だけで人の価値を測った場合、障害者は不要だという結論になるのでしょうが、例えば障害者の家族の側からすると生産性だけではなく、彼らが生きていること自体に価値を感じたりします。

その場合例え彼らに生産性がなくても、彼らの家族からすると生きる価値がないという結論にはならないでしょう。

人には色々な生い立ちや特徴があるため、人の価値を一つのモノサシで測ることなんてできません。

ある人から見るとその人には価値がないと映るかもしれませんが、別の人から見るとその人には価値があると映るんです。

なので、障害者は生きる価値がないと思っている人は、それはあくまで自分自身の考えであり、他の人は自分とは考えが違うんだということを自覚しておきましょう。

少なくとも「障害者は社会には必要ない」と一般化することは間違いです。

一個人の意見と社会全体、他の人の意見は違います。

世の中には色々な考え方があるということを理解しておきましょう。

もし仮にそれでも障害者は不要だという人は、その考えはそのままでもいいと思います。

価値観は人それぞれであり、他人に迷惑をかけない限り何を思うかは自由だと思います。

他人に迷惑をかけない限り何を思うかは自由なので、冒頭で挙げた植松のように独善的な考えを行動に移して他人に迷惑をかけることは絶対にしてはいけません。

彼の行動はいわば価値観の最低な押し付けです。

他の人たちから見ればとても正しいとは思えないような価値観によって他人を差別することは許されません。

もしそんな価値観の押し付けが許されるのであれば、「植松のような考えを持つ差別主義者どもは生かしておく価値がないから全員殺せ」という価値観の押し付けもまかり通ることになります。

考えは人それぞれ色々あっていいと思います。

しかし差別という具体的な行動はやめましょう。

大前提として、他人の生きる権利を奪っていい理由などありません。

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「生産性がない人は不要だ!」と主張する人は自分が生産性がなくなった日に排除されることになる

「生産性がない人は不要だ!」と主張する人たちは、現在の自分に生産性があるからそういうことを言っているのだと思います。

しかし人間いつ事故や病気をするか分かりませんし、歳を取ると確実に体が動かなくなってきます。

さて、普段から「生産性がない人は不要だ!」と主張していた人たちが今度は自分が生産性がない立場に変わった時、果たして同じようなことを言い続けられるのでしょうか?

そのような主張をしていた人たちも健康が悪化して人を頼らないと生きていけなくなった時、人を頼るのではないでしょうか?

このように誰でも人を頼らざるを得ない状況に陥る可能性は十分にあるため、障害者の存在を全否定するならばやがて自分の存在も全否定されるということを理解しておく必要があるでしょう。

障害者の人たちは誰もなりたくて障害を持ったわけではありません。

障害を持つか持たないかを自分でコントロールすることはできなかったわけです。

だからこそ、我々全員もそうなっていたかもしれない可能性があった以上、健康な人は障害者を支えなくてはいけないのです。

これが人間の支え合いであり、我々はみんなでより豊かな社会を築いていかなければならないのです。

確かに、いつ病気になったり事故をして寝たきりになるかなんて誰も予測がつかないもんね。

やっぱ支え合って生きていかないといけないんだな俺たちって

人間は集団で生きることに特化し、そして繁栄してきた生き物であり、支え合いという行為が我々人間社会の中核をなしていることは間違いないと思いますよ。

障害者の全体を見ていない

色々な花が咲いているように、色々な動物がいるのと同じように、色々な人がいるのがこの世の中です。

身長や肌の色といった外見的な違いもあれば、気が小さいとか我慢強いといった内面的な違いもあります。

果たして、これら個人の特徴に絶対的な優劣の差って付けられるものなんでしょうか?

身長は低いより高い方がいいんでしょうか?

肌の色は黒より白の方がいいんでしょうか?

気が小さいよりも気が強い方がいいんでしょうか?

自分に甘いよりも我慢強い方がいいんでしょうか?

別に身長は低くたっていいですし、我慢強い人は自分に甘い人よりもストレスを溜めやすく心が壊れやすかったりします。

なので、何が正解かなんて分からないこの世界で、みんながそれぞれ自分の個性を持って生きていればそれで十分だと思います。

他人の個性を安易に断罪するのは僕は傲慢だと思います。

それは一つの視点でしか物事を捉えられていないということです。

例えば、僕のお母さんは頭は良くありません。

知識もあまり持っておらず、考えることも得意ではありません。

お母さんの話を聞いていると、それは違うんじゃないか?と思うようなことがいっぱいあります(笑)

しかし、僕のお母さんはとてもとてもとても優しい人です。

舌鋒鋭く他人を批判することなどせず、いつも能天気でニコニコしています。

そんなお母さんが僕は大好きで、確かに頭は良くないにせよ、お母さんが価値のない人間だと思ったことは0.000000000000000001ミリもありません。

なので例えば、頭の良し悪しだけで人の値打ちを判断するような態度はクソしょーもないと僕は思っています。

「あいつは頭が悪いから〜」とか、「あいつはいつも要領が悪いから〜」といってその人を全否定する態度は僕は違うと思っています。

僕はそんなお母さんが世界で一番好きだからです。

このように、他人を見る時はその人の一箇所だけを見るのではなく、その人の全体を見なければいけません。

そして障害者にも良いところはあるはずであり、そこを見ずに存在を全否定することは傲慢以外の何物でもないと思います。

ゴーマンかましちゃよくないとです。

そうだよな、俺もバカだけど、俺にも良いところって案外色々あるもんな

…………

………………

……………………

何か言ってくれよ!!
しかも一番最後のやつ誰や!
お前はせめて何か喋れ!

迷惑がられるお節介さんになってはいけない

障害者に対して「生きている価値があるのか?」という疑問をネットなどで目にしますが、障害者自身が生きたいと思っているのであればそれで十分なのではないか?と僕は思います。

障害者の人たちだってみんなのように振る舞うことが出来たのであれば、きっとみんなのように会社で仕事をして、色々な娯楽を楽しんで……という生活を送っていたはずでしょう。

ただ、理由があってみんなができることができない状況になってしまっているのであり、それは本人や家族が一番よく分かっていて苦しいと思います。

そういう中で、障害者自身が生きたいと思って毎日を生きているのであればそれを邪魔する筋合いは我々には全くないと思います。

他人に迷惑をかけていないのであれば別に何をしていようが構わないのがこの社会であり、人生をどう生きるかは人それぞれですから。

障害者には障害者の価値観、人生があり、僕たちと同じ一人の人間としてこの社会で生きていく権利があります。

「あなたの人生はこうあるべきだ!」と赤の他人がズケズケ言うのは、それはお節介じいさんやお節介ばあさんの行き過ぎたお節介と一緒だと思います。

障害者の人たちは自分の人生を歩んでいればよく、それ以外の人たちも自分の人生を歩んでいればそれでいいと思います。

他人に自分の価値観を変に押し付けず、他人の存在を認めてあげましょう。

古き良き昔の時代には近所にお節介なお年寄りがいたものですが、今はそういう存在は煙たがられるだけなのでしょうね。

そうねー、あんまり私の生活に口を出さないで欲しいかなぁ……。

まぁ、今は価値観も多様化しているし、「こうあるべきだ!」という押し付けは今の時代みんな鬱陶しいと思うだけだろうな

まとめ

ここまで障害者や人の価値を生産性だけで測ることの間違いについて僕の意見を述べてきました。

僕自身も重度ではないにせよ精神に障害があり、みんなのように社会生活を営むのが難しいです。

そんな中でも今は、障害があってもいいじゃないかと前向きに考えていて、障害者に対する視線をもっと楽なものにしたいという思いもあり、このような記事を書きました。

少なくとも植松のような考え方は古い人間の考え方として過去に葬り去りたいと思っています。

令和以降これからの新しい時代は、他者の存在を極力認め個性の差をポジティブに捉えていく時代になると思います。

なのでマイノリティの僕としては、微力ながらもその流れを加速させる力になれればなと思って色々発信しています。

というわけで、こちらが本日のおまとめでございますっ!

本日のおまとめ

人の価値を生産性だけで測る人の3つの間違い

  1. 人の価値の測り方には色々ある
    ある人から見るとその人には価値がないと映るかもしれないが、別の人から見るとその人には価値があると映るものである!
    人の価値の測り方には色々あり、人の価値を一つのモノサシで測ることは不可能であると心得るべし!
  2. 「生産性がない人は不要だ!」と主張する人は自分が生産性がなくなった日に排除されることになる
    人はいつまでも健康ではない!
    障害者の存在を全否定するならばやがて自分の存在も全否定されるということを心得るべし!
  3. 障害者の全体を見ていない
    他人の個性を安易に断罪するのは傲慢である!
    他人を見る時はその人の一箇所だけを見るのではなく全体を見るべし!

迷惑がられるお節介さんになってはいけない

人生をどう生きるかは人それぞれ!
他人に自分の価値観を押し付けず、他人の存在を認めてあげるべし!

相手に自分の価値観を押し付けたりせず、相手の立場にも立って物事を考えていきたいわね!

普段俺のことボロクソ言うくせによく言うぜ

私もあなたにさっき本を捨てられた恨み、忘れてませんからね

さて、最後の桜でも見てきますかな。

桜の花びら散るたびに届かぬ思いしかないけどね 😉

ん〜、甘酸っ

ではでわ、さらば \(^o^)/ \(^x^)/ \(^d^)/

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