主張

障がい者は不要?人の価値を生産性だけで測る人の3つの間違い

あぁ、最近が綺麗でホントたまりません。

桜の季節、新生活シーズンになると、学校に入学したり、会社に入社するフレッシュな新卒たちを見かけたりしますよね。

僕は社会人として働き始めてかれこれ7年目になりますが、働き始めてからしばらくの間だいぶ苦労しました。

成果を全然出せない日々が何年も続き、おまけに周りに迷惑をめッちゃくちゃかけまくっていたので、生産性0どころかマイナス2000ぐらいの超お荷物社員でした。

トホホ……。

一般的に会社では生産性のある社員は評価され、生産性のない社員は評価されない。

これは至極当然のことだと思います。

しかし一方で、この「生産性」という言葉が歪んで使われているケースがあると思います。

代表的なのは障がい者に対して使われるケースですね。

「障がい者は生産性がないから生きている価値がない」という意見を聞いたことがありますし、少し前に障がい者を巻き込んだ凄惨な大事件が発生したことは記憶に新しいと思います。

やまゆり園で起こったあの事件です。

犯人は逮捕後も「障がい者は生きていても社会に迷惑をかけ続ける存在だから殺してもいい」という一貫した主張を続けています。

結論から言うと、僕はその主張は完全に間違っていると強く強く思います。

彼がしたことは最悪最低の行為であり、何回死刑にしても足りないぐらいの卑劣な行為だと思っています。

あのような事件はもう二度と起こってほしくないですし、そのためには障がい者をタブー視せずにもっと正面から向き合っていかなければいけないと思います。

なので、障がい者に対する僕の意見、人の価値を生産性だけで測ることの間違いについて、僕の考えを以下に述べていきたいと思います。

この記事が障がい者への理解を深めるきっかけになればとても幸いです!

人の価値を生産性だけで測る人の3つの間違い

人の価値の測り方には色々あるということを知らない

「障がい者は生産性がないから生きる価値がない」という主張は、それはその人にとって障がい者は生きる価値がないというだけのことです。

あくまでその人の視点から障がい者を見た時の考えです。

しかし一方、他の人たちから障がい者を見れば、生きる価値があるかもしれないのです。

障がい者の家族や施設の介護者たちは彼らに生きていてほしいと思っているでしょうし、障がい者を価値の低い人間とは思っていないはずです。

人の価値の測り方には色々あります。

生産性だけで人の価値を測った場合、障がい者は不要だという結論になるのでしょうが、例えば障がい者の家族の側からすると生産性だけではなく、彼らが生きていること自体に価値を感じていたりします。

その場合例え彼らに生産性がなくても、家族からすると彼らには生きる価値がないという結論にはならないでしょう。

人には色々な生い立ちや個性があるため、人の価値を一つのモノサシで測ることなんてできません。

ある人から見るとその人には価値がないと映るかもしれませんが、別の人から見るとその人には価値があると映るんです。

なので、障がい者は生きる価値がないと思っている人は、世の中には自分とは違う色々な考え方があるんだということを理解しておいた方がいいと思います。

そして一度、障がい者の家族の立場に立って考えてみましょう。

自分にも大切な人がいるのであれば、その大切な人の価値の有無を生産性だけで測ることができるのか想像してみましょう。

もし仮にそれでも障がい者は不要だという人は、その考えはそのままでもいいと思います。

考え方は人それぞれであり、他人に迷惑をかけない限り何を思うかは自由だと思います。

他人に迷惑をかけない限り何を思うかは自由なので、冒頭で挙げた植松のように独善的な考えを行動に移して他人を傷付けることは絶対にしてはいけません。

彼の行動はいわば価値観の最低な押し付けです。

他の人たちから見ればとても正しいとは思えないような価値観によって他人を差別し、傷付けることは絶対に許されません。

もしそんな価値観の押し付けが許されるのであれば、「植松のような考えを持つ差別主義者どもは生かしておく価値がないから全員殺せ」という価値観の押し付けもまかり通ることになります。

考えは人それぞれ色々あっていいと思います。

しかし差別という具体的な行動はやめましょう。

大前提として、他人の生きる権利を奪っていい理由などありません。

「お前の家ボロいし、もうこんなとこ住む必要なんてないだろ。壊しておいてやるよ」って言って土足でズカズカ上がってきてハンマーで壁とか壊され始めたら「な、何やっとるんだお前ー!!!」ってなるもんな

こっちとしては例え家がボロくても住み心地には満足しているんだから赤の他人が余計なことするなよって思いますね。。。

「赤の他人が勝手に決めてんじゃないわよお節介迷惑ブタ野郎!」って両頬10時間ぐらいビンタしてやろうかしらそんな奴!

「生産性がない人は不要だ!」と主張する人は自分が生産性がなくなった日に排除されることになる

「生産性がない人は不要だ!」と主張する人たちは、現在の自分に生産性があるからそういうことを言っているのだと思います。

しかし人間いつ事故や病気をするか分かりませんし、歳を取ると確実に体が動かなくなってきます。

さて、普段から「生産性がない人は不要だ!」と主張していた人たちが今度は自分が生産性がない立場に変わった時、果たして同じようなことを言い続けられるのでしょうか?

そのような主張をしていた人たちも健康が悪化して人を頼らないと生きていけなくなった時、結局人を頼るのではないでしょうか?

このように誰でも人を頼らざるを得ない状況に陥る可能性は十分にあるため、障がい者の存在を全否定するならばやがて自分の存在も全否定されるということを理解しておく必要があるでしょう。

障がい者の人たちは誰もなりたくて障害を持ったわけではありません。

障害を持つか持たないかを自分でコントロールすることはできなかったわけです。

だからこそ、我々全員もそうなっていたかもしれない可能性があった以上、健康な人たちは障がい者を支えていかなくてはいけないのです。

確かに、いつ病気になったり事故をして寝たきりになるかなんて誰も予測がつかないもんね。

弱者切り捨てばかり言ってたらいつか自分が切り捨てられる番になるんだろうな

健常者が強くて障がい者は弱いというのは単なる思い上がりだと思いますね。

人の欠点を見ることしか知らない

色々な花が咲いているように、色々な動物がいるのと同じように、色々な人がいるのがこの世界です。

身長や肌の色といった外見的な違いもあれば、気が小さいとか我慢強いといった内面的な違いもあります。

果たして、これら個人の特徴に優劣の差って付けられるものなんでしょうか?

身長は低いより高い方がいいんでしょうか?

肌の色は黒より白の方がいいんでしょうか?

気が小さいよりも気が強い方がいいんでしょうか?

自分に甘いよりも我慢強い方がいいんでしょうか?

別に身長は低くたっていいですし、我慢強い人は自分に甘い人よりもストレスを溜めやすく心が壊れやすかったりします。

なので、どの個性を持っていることが正解か分からないこの世界で、みんながそれぞれ自分なりの個性を発揮して生きていればそれで十分だと思います。

他人の個性を安易に断罪するのは、僕は傲慢だと思います。

それは一つの視点でしか物事を捉えられていないということです。

例えば、僕のお母さんは頭は良くありません。

知識もあまり持っておらず、考えることも得意ではありません。

お母さんの話を聞いていると、それは違うんじゃないか?と思うようなことがいっぱいあります(笑)

しかし、僕のお母さんはとてもとてもとても優しい人です。

舌鋒鋭く他人を批判することなどせず、いつも能天気でニコニコしています。

そんなお母さんが僕は大好きであり、確かに頭は良くないにせよ、お母さんが価値のない人間だなんて0.000000000000000001ミリも思いません。

なので例えば、頭の良し悪しだけで人の値打ちを判断するような態度はクソしょーもないと僕は思っています。

「あいつは頭が悪いから〜」とか、「あいつはいつも要領が悪いから〜」といってその人を否定しにかかる態度は「視野が狭いなー」といつも思います。

僕はそんなお母さんが世界で一番大好きだからです。

人の価値なんて一つのモノサシじゃホントに測れません。

このように、他人を見る時はその人の一箇所だけを見るのではなく、その人の全体を見なければいけません。

そして障がい者にも必ず良いところはあるはずであり、そこを見ずに存在を全否定することは傲慢以外の何物でもないと思います。

ゴーマンかましちゃよくないとです。

そうだよな、俺もバカだけど、俺にも良いところって案外色々あるもんな

…………

………………

……………………

なんでみんな黙ってるんだよ!
何か言ってくれよ!!
しかも一番最後のやつ誰や!
お前はせめて何か喋れ!

迷惑がられるお節介さんになってはいけない

障がい者に対して「生きている価値があるのか?」という疑問をネットなどで目にしますが、障がい者自身が生きたいと思っているのであればそれで十分なのではないか?と僕は思います。

障がい者の人たちだってみんなのように振る舞うことが出来たのであれば、きっとみんなのように会社で仕事をして、色々な娯楽を楽しんで……という生活を送っていたはずでしょう。

ただ、理由があってみんなができることができない状況になってしまっているのであり、それは本人や家族が一番よく分かっていて苦しいと思います。

そういう中で、障がい者自身が生きたいと思って毎日を生きているのであればそれを邪魔する筋合いは我々には全くないと思います。

他人に迷惑をかけていないのであれば別に何をしていようが構わないのがこの社会であり、人生をどう生きるかは人それぞれです。

障がい者には障がい者の価値観、人生があり、僕たちと同じ一人の人間としてこの社会で生きていく権利があります。

「あなたの人生はこうあるべきだ!」と赤の他人がズケズケ言うのは、それはお節介じいさんやお節介ばあさんの行き過ぎたお節介と一緒だと思います。いや、もっとタチが悪いか。

障がい者の人たちは自分の人生を歩んでいればよく、それ以外の人たちも自分の人生を歩んでいればそれでいいと思います。

他人の人生に変に干渉せず、もっと自分の人生に集中した方がいいでしょう。

他人に自分の価値観を変に押し付けず、他人の存在を認めてあげましょう。

古き良き昔の時代には近所にお節介なお年寄りがいたものですが、今はそういう存在は煙たがられるだけなのでしょうね。

そうねー、あんまり私の生活に口を出さないで欲しいかなぁ……。

まぁ、今は価値観も多様化しているし、「こうあるべきだ!」という押し付けは今の時代みんな鬱陶しいと思うだけだろうな

まとめ

ここまで障がい者や人の価値を生産性だけで測ることの間違いについて僕の意見を述べてきました。

僕自身も重度ではないにせよ精神に障害があり、みんなのように普通の社会生活を営むのが難しいです。

そんな中でも今は、障害があってもいいじゃないかと前向きに考えていて、障がい者に対する視線をもっと楽なものにしたいという思いもあり、このような記事を書きました。

少なくとも植松のような考え方は古い人間の考え方として過去に葬り去りたいと思っています。

令和以降これからの新しい時代は、他者の存在を認め個性の違いをポジティブに捉えていく時代になると思います。

なのでマイノリティの僕としては、微力ながらもその流れを加速させる力になれればなと思って色々発信しています。

というわけで、こちらが本日のおまとめでございますっ!

本日のおまとめ

人の価値を生産性だけで測る人の3つの間違い

  1. 人の価値の測り方には色々あるということを知らない
    ある人から見るとその人には価値がないと映るかもしれないが、別の人から見るとその人には価値があると映るものである!
    人の価値の測り方には色々あり、人の価値を一つのモノサシで測ることは不可能であると心得るべし!
  2. 「生産性がない人は不要だ!」と主張する人は自分が生産性がなくなった日に排除されることになる
    人はいつまでも健康ではない!
    障がい者の存在を全否定するならばやがて自分の存在も全否定されるということを心得るべし!
  3. 人の欠点を見ることしか知らない
    他人の個性を安易に断罪するのは傲慢である!
    他人を見る時はその人の一箇所だけを見るのではなく全体を見るべし!

迷惑がられるお節介さんになってはいけない

人生をどう生きるかは人それぞれ!
他人に自分の価値観を押し付けず、他人の存在を認めてあげるべし!

相手に自分の価値観を押し付けたりせず、相手の立場にも立って物事を考えていきたいわね!

普段俺のことボロクソ言うくせによく言うぜ

さて、最後の桜でも見てきますかな。

桜の花びら散るたびに届かぬ思いしかないけどね 😉

ん〜、甘酸っ

ではでわ、さらば \(^o^)/ \(^x^)/ \(^d^)/

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