人間関係って、ホントややこしい。
これほど厄介なものって世の中他にはないと思う。
僕も人間関係には散々悩んできた。
そして色々悩みながら人生30年生きてきて、だんだん人間関係のコツが分かってきた。
結論から言うとそれは、人間関係なんて壊れたって別に構わないということ。
人間関係を良好に保つことは絶対的な正義でもなんでもない。
そして、良い人でいる必要なんて全くない。
むしろ嫌われた方がメリットがある人も結構いると思う。
さて、これらが一体何を意味しているのかについて、人間関係を築けないウルトラ社会不適合者Tが散々悩みに悩んだ末に獲得した人間関係のコツを、この記事でペチャクチャ喋っていこうと思う。
まぁ、人間関係なんて、実はそんな大したものじゃない。
人間関係にあまりこだわらず、もっと肩の力を抜いて生きていければ良いと思う。
人間関係は基本ドライがいい
そもそも人間関係をいつも良好に保っておく必要ってあるんだろうか?
僕はそんな必要全くないと思う。
相手に言いたいことは言うべきだし、ケンカだってするならすればいい。
相手とぶつかり合うことは全然悪いことではない。
むしろ言いたいことを我慢したり、嫌いな人と無理に調子を合わせようとしてストレスを抱え込む方がよっぽど良くないことだと思う。
そんなことをする必要はない。
言うべきことをしっかりと言い、嫌なことにはちゃんとNoと言うべきだ。
しかしそうすると、以前よりも他人とぶつかりやすくはなるだろう。
これは以下のような選択の問題でもある。
「人間関係を良好に保つために、周りの空気を壊さないよう自分が色々我慢する方がいいのか」、それとも「自分らしく生きていくために相手とぶつかり合う確率が高くなる方がいいのか」、そのどちらの方向性で自分は生きていくべきかという選択の問題だ。
そしてその二つの選択肢を天秤にかけ、どっちが自分にとってより価値があるのかを選択しなければいけない。
この記事を読んでいるということはそうだと思うが、もしあなたが今の人間関係がしんどくて、より自分らしく生きていくために他人とぶつかり合うことを受け入れる方に価値を感じるのであれば、人間関係はドライに対処していった方がいいだろう。
八方美人的に周囲と仲良し人間関係を築いていれば、面倒な頼みごとだって人間関係を気にするあまり断りにくいし、親しい人のことを注意しないといけない場面だとその人にはかなり注意しづらいだろう。
人間そういうものだ。
人間関係が深くなってしまえば、やはり相手を気にして自分を抑えてしまうことも自然と多くなってしまう。
周囲との人間関係を大事にすれば、今度は自分のことを大事にできなくなってしまうものだ。
そうなると結局モヤモヤやストレスを抱え込むのは自分だ。
だから人間関係をドライに捉えて周りと一定の距離を置き、いつでも言いたいことを言ったりぶつかり合ったりできるような関係を構築しておいた方がいいだろう。
「人間関係が浅いから相手から何を思われたって特に気にならない」という関係を築いておいた方がいいだろう。
そうすれば、人間関係にビクビクせずもっと自分らしく生きていくことができると思う。
もちろん、周囲との良好な人間関係を楽しみたいのであればそれはそれで全然いいと思う。
しかし人間関係を気にするあまり自分がしんどくなったり、損をしたり、その他弊害が出てくるようであれば、人間関係をドライに構築し直していった方がいいだろう。
人間関係がしんどくて色々追い詰められていく状況を放置するのではなく、「人間関係なんて最終的に壊れたって別にいいさ」という逃げ道を用意しておくことが人生では大事になってくると思う。
そうやって開き直り、自分をもっと大事にした方がいいと思う。
相手を侮辱さえしなければ人間関係はそれでOK
そもそもなぜ周囲にいつも愛想良くしていなければいけないんだろうか?
誰かと接する時はいつも柔らかい表情を作り、喋る時はいつも声のトーンを上げ、場の空気が悪くなりそうだと慌ててフォローしようとし、連絡をする時は絵文字やスタンプを決まって最後に付け、別れの時は何度も首や腰を曲げて丁寧に彼らを見送る。
これらって、、、いる?
愛想って、そんなに必要?
例えば、店に行った時に愛想のない店員に少しムカついたこともあるかもしれない。
しかしよくよく考えると、別にその店員からお前はバカだとかアホだとか侮辱されたワケでもなんでもない。
ただ単に愛想が悪かったというだけ。
それなのに「あの店員の態度クソだったよな」って悪態をつくのは、少し店員が気の毒な気がする。
よくよく考えるとその店員は別に悪いことは何もしてなくて、むしろこっち側の期待値が高過ぎるだけ or 「愛想が良い = 正義」という価値観が染み付いているから咄嗟にムカついてしまったというだけだ。
でも、例えその人の愛想があまり良くなかったとしても、別にこっちを侮辱しているワケじゃなければその人を悪く言える理由はどこにもないのが本来だと思う。
だって、別に相手は何も悪いことをしてないんだから。
そしてそれはこっち側の態度についても同じことが言えるだろう。
例えこちらがいつもドライな感じで愛想良くしていなかったとしても、相手を侮辱していないのであれば誰かから非難される筋合いはないはずだ。
もちろん何か悪いことをしたのであればそれは非難されるべきだ。
しかし自分が何もやましいことをしていないのであれば、こっちが塩対応しようがそれでも別に構わないのではないだろうか?
特段愛想良く振る舞ったり、人間関係に気を遣い過ぎずフツーに接していけばいいはずだ。
ドライな人間関係をフツーに続けていけばいい。
愛想が悪かろうが付き合いが悪かろうが、相手を侮辱さえしなければ人間関係はそれで合格点だと思う。
みんなと仲良くする必要なんてない
一般的に小学校では「みんなと仲良くしなさい」と教えられるだろう。
僕もそうやって教えられてきた。
でも僕は色々な人と仲良くしようとすることで、逆にしんどい思いをしてきた。
相手が嫌な人なのに関係を壊してしまわないようこちらが一方的に我慢したり、人間関係を悪くしないために嫌な頼みごとでも色々引き受けたりと、損な立ち回りをたくさんしてきた。
だからこそ今は心から思う。
「みんなと仲良くする必要なんて全くないし、実際自分ファーストで生きた方がよっぽどより良く生きられる。小学校のそんな教えなんて社会に出たらクソの役にも立たねえわ」って。
そもそもこんなに多種多様な人で構成されている社会の中で、全員と仲良くなんてできるわけがない。絶対に不可能!!
世の中これだけ色んな人がいるんだから、気が合う人もいれば気が合わない人や気に食わない人がいるのは至極当然のことだ。
だから気が合わない人や嫌いな人が色々いても何も後ろめたく思う必要はないし、そんな人と無理に関係を維持しようとして無駄なストレスを抱え込む必要もない。
みんなと仲良くすることが絶対的な正義ではない。
僕はみんなと仲良くすることをやめてから、とてもラクに生きられていると感じている。
「みんなと仲良くすることをやめた」とは言っても、自分から何かトラブルを起こそうとしたり周囲を馬鹿にし始めたというようなことではない。
先ほどの章でも説明したように、他人を侮辱しないというラインを引き、後はドライな関係というものを前提にしてフツーにしているというだけだ。
しかしそうすることで人間関係という超ややこしいものに気を遣うことがかなり減り、人間関係のストレスは間違いなく激減した。
みんなと仲良くなんて不可能。無理。できない。
ほんとあの小学校の教え、デタラメだよなって思う。
あそこまでいくと詐欺師だよ、詐欺師。
キレイゴトにも程があるね。
嫌われたって構わない
嫌われたくないという気持ちは僕も良く分かる。
僕も以前は八方美人タイプの人間だったから、嫌われることを恐れていた。
でも人間関係を気にするあまりしんどい思いを色々してきて、そして考え方を変えてきて、今は嫌われてもいいと思っている。
というか嫌われるのは仕方がないと思う。
世の中には良い人も悪い人も変な人も含めて色々なタイプの人がいるわけだし、それに自分の個性を活かして自分らしい生き方をしようとすればするほど周りから嫌われるケースは増えてくるものだ。
だから嫌われることはもう仕方がないことだと割り切り、周りから好かれることはキッパリ諦めた方がいい。
もしあなたが嫌われたくないのであれば、大人しく周りの機嫌を伺って生きていけばいい。
人間関係を良好にし、自分を抑えて生きていけばいい。
けど、それが嫌でしんどいのであれば、もう嫌われることを恐れてはいけない。
自分らしく生きられるという大きなメリットを取って、嫌われることを受け入れるべきだ。
それに、誰かに嫌われたところで、別に死ぬワケでもなんでもない。
たとえ嫌われることによって今のその環境での居心地が悪くなったとしても、最後はその環境から離れてしまえばいいだけだ。
そして「自分と合わない人との縁が切れて今後の余計なストレスから解放されることになったからラッキー☆」くらいに思っておけばいいと思う。
相手から嫌われたとしても、自分にやましいところがなければ堂々としていればいい。
そもそも人間関係は別に壊れたって構わないものだ。
「人間関係が壊れる = 悪」というのが世間の常識だと思うが、そんなことは全くない。
むしろ人間関係を気にし過ぎて自分の気持ちを疎かにする方がずっと悪だと僕は思っている。
それよりも言いたいことをハッキリ言って、ぶつかり合うならぶつかり合って、そしてそこで人間関係が壊れるのであれば、もう壊れてしまえばいい。
もしそうなれば、結局あなたとその人はその程度の人間関係だったということ。ただそれだけのこと。
というかたった一回ぶつかり合っただけで人間関係が完全に壊れてしまうことの方が珍しいんじゃないかと思う。
自分が悪いことをしていないのであれば、何も後ろめたく思う必要なんてない。
嫌われたって構わない。
人間関係にこだわらなくたって構わない。
嫌われても嫌われても、自分らしく生きていった方が後々良い人生だったと振り返れるはずだと僕は思っている。
親身になる基準はその人が困ってるか困ってないか
人間関係というものに対してこんなドライな考え方の僕でも、一応人に親切になる瞬間はある(笑)
僕が他者に対して親身になる基準は、「その人が困ってるか困ってないか」というとてもシンプルなもの。
その人が困ってたら助け、困ってなければ別にどーでもいいという感じ。
どーでもいいというのは何もその人を雑に扱ったり見下して扱ったりするという意味ではなく、あくまでフツーに接するということ。
でもこの基準を自分の中に持っていることで、基本的に他者にはフツーな感じで接することができるし、困っている人はちゃんと助けることができているなと感じる。
そしてその困っている人がもう困らなくなったら、あとはもうフツーに接すればいい。
人間関係もズブズブになることはない。
「困っている人は助けてあげて、その他はどーでもいい」という基準を持つことは、ドライだけど助け合うこともできる人間関係を構築する上で結構役に立つんじゃないかなと思う。
まとめ
以上、ここまで僕なりの人間関係についての持論を述べてきた。
まぁ、人間なんてこの世にいっぱいいるんだから、10人、20人、100人との人間関係が壊れたところで代わりはいくらでもいると思う(笑)
だから別に人間関係にこだわらなくても良いと思うし、人間関係は壊れても構わないという前提で生きていった方が気がラクだと思う。
人間が追い詰められるのは逃げ道がないからであり、人間関係の悩みに関しては「人間関係は壊れても構わない」というような逃げ道を作ってあげることがとても大事だと思う。
それに人間関係なんて相手がいることだからクヨクヨ考えてもキリがないしね。
人間関係において何が正解かなんてホント、全然分からんわ。
ということでもう、「人間関係なんて壊れてもいいさ」と割り切って、あとは考え過ぎることなくフツーに生きていけばいいと思う。
もちろん、「人間関係に悩んでなくて、今の人間関係が充実している!」という人はこの記事の内容は無視してもらって構わない。
しかし、人間関係に色々と悩んでいる人は、この記事に書かれているようにあまり人間関係というものを深刻に捉えなくてもいいと思う。
人間関係は壊れたって構わないし、ぶつかり合おうが嫌われようが、それはごく自然なことだ。
自分が何も悪いことをしていないのであれば、堂々としていれば良い。
それに人間関係が一度壊れてしまっても、修復することだってできるしね。
だからまぁ、人間関係のことは色々と考え過ぎず、もっと気楽に考えて生きていったらいいと思う。
人間関係を良好に保つことがこの世の全てではない。
むしろ大勢の人に嫌われようが大きく成功している人もたくさんいるのが現実だ。
良好な人間関係を築けなくても、あなたの良いところは他にもたくさんあるのであり、それらの強みを発揮していければそれで十分だと思う。
というワケで、ドライにあっさりと終わりますね。